2018年01月04日

やはり『君の名は。』にはモヤモヤする

昨日、テレビで君に届け…じゃなくて『君の名は。』を放送していましたね。

私はやはり、この作品を観れば観るほどモヤモヤした気持ちになってしまうのです。
以前も書きましたが…この作品自体をディスる気持ちは無いです。
言いたいことはたくさんあるけどね…なんでお互いのスマホを見てすぐに時間のずれに気づかないんだ?とか、会って泣くほどいつ惚れ合った?感情描写なさすぎるだろ…などなど。

でももうそれはそれで良いのかもしれないので、良しとします。
おそらく監督的には、恋愛というよりは精神的双子の片割れを探すような気持ちの惹かれあい…みたいなものを描いているんだと思います。
惹かれあう細かい心理描写が無くても、磁石のS極とN極が何もしなくても惹かれあうようにできている…それに似た「半身」という存在なんだと思います。
でもその感覚がわからない人にとっては全くもって感情移入できない作品であることは間違いないでしょう。

かなり若い人向け・中二病向けの作品です。

私がモヤモヤしてしまうのは、「この作品がメガヒットしてしまう世の中」に対して非常にモヤモヤしてしまうのです。

以前の記事で下記のようなコメントを頂きました。

今日の記事のモヤモヤ感、よくわかります。
私はアニメ、漫画オタクの中でもかなりな古狸のほうだと思いますが
「こ、これはなんかやばいんじゃ?」と何か直観的な危機感を感じています。
いや、オタクが市民権をそこそこ取れたのは助かりますがこういうのはそこそこでいい気がします。「過ぎたるは・・」なホラー。


私も同意見です…よくわからないんですけど「直感的な危機感」をビシバシ感じる…。

ちなみに新海監督のアニメは…過去の作品については酷評されているものや爆死したひどいものがけっこうあるみたいで…私も深夜に一挙放送されていたのをちょっと観ましたけど、コメントできないくらいひどいのもあります。
しかし、そういった紆余曲折を経て今回のメガヒットを生み出すことができた…と考えれば、それはそれですごい…のかもしれない。

『君の名は。』はおそらく、過去の作品から得た教訓を生かし、企画段階で綿密なマーケティングや分析がなされたんじゃないかな、と個人的に感じます。
制作委員会が立ち上げられたようですし、ブレーンが居て色々と助言をしたのではないでしょうか。(←私の勝手な想像です。)
また、どういったものを描いて、どういった宣伝を打って、SNSをどう使って拡散するか…などについても相当考えられていたのではないのでしょうか。
そして広告代理店の力もあったと思います。声優も以前の作品と比べて豪華ですから。

それにしても新海監督の作品は、背景などはすごくリアルなんですが、そのほかの部分から全然リアリティを感じないんですよね。無機質な感じ…それがイイのかもしれないけれど。
背景が実写に近いのに、人物は普通の二次元のアニメ絵だからすごく浮いている感じを受けます。でもそれを含めてもうそれが新海ワールドなんだ、と言われればそれまでだから何とも言えませんが、私はあまり好きじゃありません。
この人物の浮きっぷりがまた「無機質感」を際立たせているようにも感じられます。

『銀河鉄道の夜』や『耳をすませば』は未だに大好きですが、新海アニメはどうしても受け付けない何かが自分の中にあるんですよね。
やはり単純に私が歳をとってオバサンになったからかしら…?若い頃に出会っていたらハマっていたかもしれません。でもなんか基本的にモヤモヤするんですよね。不思議です。

ただ本当になんというか…こういった作品が政府ぐるみ(?)で持てはやされる世界って、いやはや色々な意味で凄い世の中になったなと感じます。
ジブリやディズニーがヒットするのとではまったくもって根本的に訳が違いますよ。
こんな言い方するのはアレかもしれませんが「秋葉原の非モテのオタクたちの情熱を結集させて美しく昇華して結晶化させたような作品」がメガヒットしてしまうって…日本は大丈夫なのでしょうか。

井筒監督なんかは『君の名は。』のヒットについて批判しているようですが、こういった風潮に対しキチンと酷評してくれる人がいるのは良いことだと思いますね…。

もちろん「この風潮を批判しているやつは頭が古いだけだ!今はもうそういう時代なんだ!」と言われればそれまでですが。

私がただオバサンになってしまっただけなのかもしれない…寂しいことです。

しっかし鮮やかさが目に突き刺さる作品だなとしみじみ思いました。
私の脳内の色彩認識キャパシティを超えていて目がチカチカします。
いや、とても綺麗ですけどね。「ああ、世界って美しいんだな」と感じさせてくれる力はあります。

ちなみに、以前ネット上で新海アニメのことを「動くラッセン」と表現している人の書き込みを見て笑ってしまいました。

ラッセン検索結果.jpg
↑これが「ラッセン 夕日」の検索結果です。たしかに…!!新海アニメはラッセンに通ずるものがありますな(笑)

それにしても、ちょっと新海監督の過去の作品の話になりますが…ちょっと…すごい…アレですね。アレです。正直ちょっとどうかと思う作品ばかりでした。

『秒速5センチメートル』だけはなんとか仕上がっている作品だと思いました。酷評している人も居ますが…。うん…私もどうも好きにはなれなかったです。いくらなんでも間が悪すぎる。
本来なら「抒情的で幻想的でどことなく哲学的な交わらない2人の物語」って私の大好物なはずなんですけど、ダメでした。見ていて信じられないくらいイライラした。風景は綺麗だけどさ。

ふと「これって男女別に感想に差が出るのかしら?」と気になり、色々と調べてみたり聞いてみたりすると、男は女が見てると思っていて、女は男が見てると思っている、という不思議な感想がチラホラありました。

<男性の感想>
男でこんな作品が好きなんてダメだろ。若い女子が好きそうだな思った。
<女性の感想>
男性が思う理想の女性が描かれてるって感じで、一部の男性から支持されてそうだなと思った。


↑こんなかんじで、感想も男女ですれ違うという不思議な感じに…(笑)

『言の葉の庭』に至っては「俺オッサンなのに感動して泣いた」という書き込みがある一方で「こんなのはヒロインと同じくらいの年齢の女性からしか共感されない作品だ」と言う男性の感想がありました。
では女性はと言うと「こんなんありえない」と辛辣な感想を書いていたりして、これまた不思議な結果に。
正直私もアレはないわ、と思いました。

新海アニメはいったい誰から支持されているのか…?
本当に人によって好き嫌いが分かれる世界観なんだなぁと思いました。
『君の名は。』についても批判している人やつまらないと言っている人いるし。

もちろん皆が皆納得のいく作品なんて描けないでしょうけど、色々な意味で…新海アニメが一般層に受け入れられたという今の世の中の不思議さについては、やっぱり考えさせられるものがあります。

いま改めて、ラピュタやトトロや耳すまの偉大さを感じますね…パヤオはやっぱりすごかったんだなぁ。

私のようなポンコツが偉そうに長々と語ってすみません。
タグ:君の名は

2017年03月14日

拒食症少女のびん…昭和レトロなガラス瓶たちに思いを馳せて…

最近、昭和レトロな空き瓶を収集している方々のブログを
ニヤニヤしながら見ることにハマっております。

ボトルディギング_画像検索結果.jpg
↑「ボトルディギング」というワードで検索して頂ければわかると思いますが、
昔は使用済みのジュース瓶や化粧品・クリームの瓶やらインクの瓶やらを
その辺の竹やぶなどに捨てていたそうなんです。(これを“ハケ”と呼ぶそうです)
今じゃ不法投棄になってしまいますが、昔はそれが当たり前だったようで、
その瓶の数々が今でもそのままの形で埋まって残っているんだそうです。
それを発掘して綺麗に洗浄し、ブログにアップしている方々が居るわけです。
いや~これが本当になかなか奥が深い。
昔の瓶は不揃いで、気泡などがたくさん入っていたり、
歪んでいたり筋が入っていたりして非常に幻想的なのです。
美しい瓶の世界は見ていて楽しいです。

びんだま飛ばそ_表紙表.jpg 
そこでふと目に留まったのが、瓶マニアの教科書と言われている
庄司太一氏の『びんだま飛ばそ』という本です。
たまたま図書館にあったので、借りて読んでみました。

びんだまとばそ裏.JPG
この本は、確かに色々な瓶の写真がたくさん載っていて、見ごたえがあります。
瓶マニアの教科書と言われるだけあるな~と思いました。
著者の趣味丸出し(?)な、昭和的ノスタルジー満載のショートストーリー(?)も
随所に掲載されていて、何とも趣深い一冊になっております。

そしてですね、この本で私が最も興奮し、注目したのがですね、
少女愛に関連する昭和乙女の空気が満載なエピソードが紹介されている箇所です。
「拒食症少女のびん」という項目の部分です。

全文載せるのはアレなので、簡単に要約しました。

「拒食症少女のびん」

びん博士(←著者)が古美術商の弟子をしていたとき、荻窪の古いお屋敷の整理に立ち会った。
そのお宅は、ご主人はとうに亡くなり、身寄りのないおばあちゃんも病気で入院中とのこと。
そのお宅に入ると、他の部屋とは明らかに雰囲気が異なる一室がある。
それはどう見ても若い女の部屋で、昭和20年代そのままの姿で残されていたのであった。
ここの家にはどうやら娘さんが居たらしい。

机の引き出しからお茶の水女子大付属高校のバッチが出てきた。
押入れには可愛い衣類が綺麗にしまわれており…
絵日記・カード・中原純一挿絵の雑誌『それいゆ』、星空と教会のシルエットの便せん、
リボンや髪留め、木製ブローチ…そういった甘い品々もたくさん出てきた。
中でも関心を引いたのは、40通あまりある付け文(ラブレター)を含む手紙の束である。
乱筆を詫びる際に「ガラスペンが名誉の負傷をして居ります故乱筆を御許し下さいませ」
という言い回しに、びん博士は「そうだった。昔はガラスペンを使っていたなぁ」
…と思わずため息を漏らすのであった。

手紙を読んでいてわかることは、この娘さんは、
憧れの同級生とお手紙のやり取りをしていたらしいということ。
「天下のガリつきの美少女の秀才へ」と始まる文面は、
当時「S(エス)」と呼ばれて流行った同性への憧れに満ちたものであった。
学校で交換されたと思われる付け文の他に、病院から家族や友人に送られた手紙もあり、
内容から察するにこの娘さんは拒食症的な症状で苦しんでいたと思われる。
手紙の最後の日付は、彼女の誕生日に病院から母親にあてた昭和29年9月1日のものであった。
「下痢をしようがもどそうが、ものが食べられるようにベストを尽くす」と書いてある…。

手紙を自宅へ持ち帰った後、この手紙の束を捨てようかどうか迷っていると、
突然部屋に掛けてあった柱時計が理由もなく落下し、
文字盤のガラスが粉々に砕け散ってしまったのである。
この現象に亡き乙女の意思を感じ取ったびん博士は、手紙の束を捨てずに持ち続けているのである。

拒食症少女のびん.JPG
↑この写真のびんは、彼女の机の上にひっそりと置いてあったものだそうです。

いや~~~~もう!なにこのエピソード!!
マジで吉屋信子氏の小説の世界そのものというか……本当にあったんですねこういうことが。
個人的にとても興味深かったのが、昭和20年代…つまり戦後も「S」の関係が
廃れずにキチンと残っていたという点です。
まぁ、今現在でも似たようなモンはあるところにはあるでしょうけど。

そんなこんなで…思いがけない本で「S」の世界を垣間見ることができて、
私はなんだかとっても感激したのでした。

2016年12月15日

女性性の欠如が世界の崩壊をもたらす…?『薔薇の名前』を読破したので簡単な感想を…。

薔薇の名前上.jpg薔薇の名前下.jpg
ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を読破しました。

『薔薇の名前』とは…

『薔薇の名前』(ばらのなまえ、イタリア語原題:Il Nome della Rosa)は、
ウンベルト・エーコが1980年に発表した小説。
1327年、教皇ヨハネス22世時代の北イタリアのカトリック修道院を舞台に起きる
怪事件の謎をフランシスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムと
ベネディクト会の見習修道士メルクのアドソが解き明かしていく。
(Wikipediaより)

この有名な本は…私が今さらアレコレ偉そうに講釈たれるのも畏れ多い名作ですが、
せっかく読破したので、サクッと感想を述べてみたいと思います

著者はトマス・アクィナスの研究者であり、記号論学者ということもあり、
とにかく全体的にまどろっこしくて難しいです…。
この本を一言で言い表すならば、
「中世ヨーロッパの僧院を舞台にした推理ミステリーに
難解かつ重厚なキリスト教系哲学書的雰囲気をこれでもかと盛り込んだ作品」です。

哲学用語が随所にちりばめられているうえ、
中世キリスト教の基本知識がないと、なかなか物語に入って行けない作品です。

読み進めるうちに、なんとなくオチの「謎の書物」が何なのかはわかりました。
というか、察しの良い方ならわかるはずです。
正直「えっそんなことだったの…」みたいなオチですので、その点ではガッカリです。
小説家ってのは、わかってしまえば単純なことを、複雑かつ魅力的に、
もったいぶりまくって書くのが仕事ですからしょうがないのかもしれませんが…。

まぁ、推理小説としてのオチはともかく、この作品の要はそこではないんです。
この作品は、色々なことを我々に考えさせるように作られた哲学書です。

男たちのむなしい権力闘争・派閥争い…
神の解釈をめぐっての宗派の対立…
異教や異端を排除しようとする体質…
「キリストが財布を持っていたかどうか」の解釈をめぐって怒号が飛び…
異常なまでに本に固執して殺人事件にまで発展…
「“笑い”が善か悪か」の考え方の違いで言い争う…
女性と交わることを禁止した結果、男色に走る修道僧…

この作品では、上記のような…現代人の感覚からすると「異常」とも思える世界が
これでもかと描かれています。でも、キリスト教原理主義とかカトリック的世界では
現代においてもこういった世界観が根強く生きていたりすることもあります。
それを考えると恐ろしいですね。

宗教対立って本当に馬鹿みたいですよね。
異教徒の対立も、同じ宗教内での宗派間の対立も、本当に馬鹿みたいです。

だいたい、昔から疑問に思っているのですが、
宗教という存在は、カネや権力や階級闘争や暴力や戦争などから
最も離れていなければならないのに、現実はその逆ですよね。
仏教や新興宗教でもやたらとカネを要求する宗教がありますが、
宗教…つまり「なにかに対して祈る」という現象や行為は、
カネや権力とは何の関係もないものであるべきだし、もっと自由でなければならないと思います。

まぁ、もっと言ってしまえば宗教なんて無くていいんです。
自然に感謝して、母なる大地を讃え、太陽や月に祈る…という
原始的な「祈り」だけが存在していればいいんです。私は昔からそう思いますけどね。
(そういった原始宗教がやがて一神教とかに発展してしまうんだろうけど……)

私の勝手な解釈では、この作品では、
そういった…行き過ぎた男性主義的な宗教に対する批判が
さりげなく、そして力強く込められていると思いました。
この作品に唯一登場する女性は名のない「村の貧乏な娘」です。
この娘がこの作品全体に、とても鮮烈な印象を与えているんです。

下巻末に掲載されている解説で、訳者の河島英昭氏は…

山上の僧院が最も神へ近い祈りの場であるべきなのに、
そこが権力の座をめぐる醜い争いの場になっていることは、すでに明らかになった。
そこに欠けていたのは、皮肉にも<神>である。
それゆえ、この小宇宙に破滅の時が近づくのは当然かもしれない。
他方、死を賭けて奪権闘争を展開するのは、純粋に男たちの世界である。
ここに欠けていたのが<女>であり、性の概念であったことも、明らかだろう。
(下巻419p)

…と述べられています。

さらに科学哲学者の村上陽一郎氏の発言…「アドソにとってのキリストは、
あの女の子のかたちで現れていたんじゃないかなという感じがしたんです」
という解釈も引用されています。

まさに、ザックリ言うと、
女性性の欠如が世界の崩壊をもたらす」ということなんだな、ということです。

これは「ダ・ヴィンチ・コード」のダン・ブラウン氏の思想とよく似ている気がします。
キリスト教では(というか多くの父権的な一神教では)女性が不浄の存在として疎まれています。
そして女性を遠ざけて遠ざけて遠ざけまくった結果、世界の均衡が崩れ、
やがて世界は崩壊へと向かう………。
これは宗教世界だけでなく、現実世界にも当てはまることだと思います。

ちなみに「女性性=女性そのもの」というわけではありません。
いわゆる「女子力」とも違います(笑)
要するに…神聖なる母性というか…巫女さんとか…
どうにもうまく言えませんが、そういった感じのものです。
そして、
「女性性が充分に浸透している世界=女性大統領や女社長が台頭する世界」ではありません
むしろそれは母性原理を土台とする女性性とは真逆のものです。

…話を本に戻しますが。
この『薔薇の名前』というタイトルですが、

この小説の原題は、イタリア語で「Il Nome della Rosa」で、
英訳すると「The Name of the Rose」である。
薔薇(rosa)にも名前(nome)にも定冠詞が付いている。
小説は、その最後が、/stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus./
というラテン語の詩句で終わっている。これはモーレーのベルナールの説教詩の一行で、
小説の最後の部分では、ベルナールの詩の句が幾度も引用されている。
(Wikipediaより)

…ということで、色々な解釈の仕方があり、深いタイトルなわけですけども、
ダン・ブラウン風?に「薔薇=女性器=女性」と単純解釈すると、
女性について思いを馳せるタイトルである、とも解釈できる…ような気がします。
少なくとも私は勝手にそう思っています。

いや~久しぶりに重厚な本を読みました。
色々考えさせられました。